津藩は武士身分で武士と百姓・町人の境界的な階層の無足人がいた。
近世社会の平人は①百姓②町人であった。
最下層身分は賎民身分で①えた②非人③ささら④猿引であった。
えた身分とは?
近世部落のえた村に居住していた。
死亡牛馬を獲得して処理していた。
死亡牛馬の処理権利を独占していた。
①皮革業②ぞうり製造業③太鼓製造業などの産業に従事していた。
課された役負担は①皮を納める⇒皮役②警察役③掃除役④行刑であった。
非人身分は非人小屋の居住していた。
勧進は、決まられた縄張りに慶事や凶事など1年の行事の物乞いをしていた。
大黒舞は芸能に従事していた。
町や村の治安維持など被差別部落民の賎民身分は警察の役割をしていた。
士農工商の用語は紀元前からあった。
中華地域で士農工商の用語を中華帝国が使用していた漢字である。
身分の種類でなくて身分の序列である。
士は武士の事でなくて、士大夫の士である。
道義を修めた人と道義を重視する階層を指す。
農の表記問題は漁民と山地域の狩人が欠落している。
農ではなくて百姓の表記が正しい。
村地域に居住していた商工業者も百姓である。
職人身分の工と商人身分の商が一括して町人身分となっていた。
工の職人身分と商の商人身分は同じ町に住み通婚していた。
町に居住している平人は町人身分であった。
村に居住している商人と職人は百姓身分であった。
江戸時代の身分制度は江戸時代の前期に四日市地域に近世部落が成立した。
桑名藩領に7つの地域に近世部落が存在した。
近世部落の戸数が26軒で近世部落の人口が121人であった。平均1地区当たり3・7軒で17・3人であった。
非人は仏教用語であった。
乞食とは浮浪民・貧窮の民を指している。
北伊勢地域では17世紀後半の江戸時代中期から非人の用語が使用されていた。
江戸時代前期まで乞食の用語が使用されていた。
乞食も仏教用語である。
僧侶が修行の一種で各世帯を回り家の前で托鉢を立ち行脚をする事であった。
近世社会では乞食は居場所を離れて生活困難の家無しのため物乞い生活をしていた。
桑名藩領に1448人もの多数の乞食が存在していた。
矢田村に乞食の居住の記録があった。
非人番頭・乞食頭の記述があった。
天保期に取締り文書では非人の用語が記載されている。
京都で新非人狩りがあり調査があり庄屋が文書偽造の罪で非人身分となり亀山藩領に追放された。
被差別部落の料理
①午黄(ごおう・胆石)
熱さましで体温を下げる風邪治療効果と疲労回復効ありで、硬いもので硬い午黄は品物として最適である。
軟らかい物の柔軟な午黄は虫害が原因で食品として使用できない。
②牛の胆汁は胃の病気を治す効果がある。牛殺害場の軒の日陰で風通りの良い所に吊るして牛の胆汁を干した。
③化製業は牛殺害場で育成殺害された家畜の皮と骨と脂肪を化製業者が扱った。
内臓と血液も処理していた。病気で死亡した家畜と事故死した家畜と養殖ウサギと野生動物を扱った。
寺方地区と赤堀地区には原皮業者がいた。
寺方地区は1950年代まで赤堀地区は1980年代の集落の改良事業まで化製業が盛んだった。
現在は愛知県の化製業者が化製業の中心である。
赤堀の化製業は明治時代初期から化製業が営されていた。
赤堀地域の化製業の経営者は代々喜右衛門の名称を継承していた。
昭和29年に4代目喜右衛門の時代となった。
戦前の昭和20年まで原皮と骨と内臓の取り扱いに忙しく太鼓の張り替えの熟練の技術が必要であった。
原皮は仲買のみで毛皮が中心であった。
内臓は従業員の1人が戦後独立する際に権利が譲渡された。
4代目喜右衛門が経営者だった時代に経営者の家族を含めて従業員が合計10人程度であった。
四日市の市域の村々
伊勢国
鈴鹿郡⇒3ヵ村
三重郡⇒60ヵ村
朝明郡⇒36ヵ村
合計⇒99ヵ村
江戸時代の領主
①幕府=代官
②桑名藩
③忍藩
④長島藩
⑤菰野藩
⑥亀山藩
⑦津藩
⑧久居藩
①大和郡山藩⇒四日市+浜田+橋北+浜一色+小杉+小古曽など内部地域
②吹上藩⇒野田
③一宮藩⇒阿倉川+芝田
④津藩⇒坂部+県地区+桜地区+松本+山之一色
⑤久居藩⇒高角+中川原地域
⑥菰野藩⇒水沢+小山田
⑦亀山藩⇒小松+鈴鹿内部地域+和無田+鹿間+水沢野田
⑧桑名藩⇒八王子+室山+西日野+東日野+富田六郷+朝明郡地域
⑨長島藩⇒塩浜地域
⑩紀州藩⇒泊
⑪忍藩⇒大矢知地域
⑫日永⇒幕府領+神戸藩
⑬寺方⇒津藩+久居藩
近世の身分
①天皇+皇族など
②公家身分
③武士身分
④百姓身分
⑤町人身分
⑥えた身分
⑦非人身分
⑧僧侶身分
⑨神官身分
被差別身分
えた・非人以外に説経・猿引
野ひにん
年貢の負担に耐えられないは百姓のケース。
百姓が奉公先で行方不明のケース。
犯罪行為で身分を落とされた者。
ささら
佐々羅や経本と記述。
伴奏楽器が二種類あり。
竹製の字と木製品の絵の字がある。
念仏踊りと獅子舞と大神楽を使用。
ささら身分とは?賎民身分の者。説教者である。
伴奏として、ささら、木使い、社寺の縁起を語り、節分によって民衆を説くものである。
ささら語り
安寿姫と蔚子王はさんせう大夫
石堂丸が刈萱堂の物語
摂津の四天王寺が非人関係のしんとく丸
近江の山本権現関係の愛護の若
熊野の霊験語り小栗利家の昭手姫の物語が多かった。
鉢叩きは別名ヒサゴ叩きで鉢・鉢屋・鉢開き
京都では茶せんと称した。
空也上人の流れをくむ。放浪の念仏の集団に所属していた。
僧形の鉢を叩き家々から酒福された。
理由は中世に一般民衆のため仏教寺院を供養しなかったので阿弥陀仏を唱えて死者の供養をした。
猿引は猿回しと猿飼いを伴い猿がさまざまな芸を演じて新春を祝ったり祝儀を得る芸能の民であった。中世の猿は神の使いであった。
馬教は母猿を飼育する職業で馬の病気を除去して猿を使用する呪術者とされた。
陰陽師は特殊な占い方法で国家社会個人も吉凶を占い呪術作法を行う術士とされた。
土御門家の安倍氏が有名である。
村落を遊行して民衆とため呪術的な加持祈祷占い祓いなど儀式を行い農作業の暦を頒布した。
舞太本は無々の中で一流の者の名称。
願人は本来願人の意味。
神仏への願掛けの代理人の願人坊の願人坊主の略語である。
江戸時代に門番⇒大道芸⇒道芸⇒僧
江戸時代2人1組に誕生仏を桶に入れて人々喜捨して人の代理として願掛け修行をした。
行人⇒行者と呼ばれて仏道の修行をした者。慰問をした者。
道心者は特定の寺院に所属しない道心坊と同じような仏法に帰依した者。
こぜ女⇒目に障害のある女性で2人から3人組で放浪して三味線を弾けて祝儀を得た者。
座頭⇒目に障害がある男性で針+灸+マッサージの仕事をした。
神事の舞は芸能文化で阿倉川村と桑名太夫村の太神楽は有名である。
平安時代①度会郡②多気郡③飯野郡の神三郡の伊勢神宮の神宮領土であった。
三重郡と朝明郡の神官荘園で御厨と御国が設置された。
朝明郡で28カ所、三重郡で242ヵ所の御厨と御国ができた。
室町幕府の奉行衆
①朝倉氏⇒保々西城+中野城+市場城+茂福城
②海老名氏⇒下野山城
③横瀬氏⇒広永城
本百姓は5人組は共同責任で村役人で5人組で統括して領主命令で年貢を取り立てて納入して農民を支配した。
名主と組頭は本百姓の中で有力農民で世襲的な話し合いの選挙で領主の代官の承認を得る。
百姓代は17世紀末に誕生した新しい村役人の小百姓の代表として村行政の監察の役目をした。
名主は名字帯刀が許される高い格式を持つ
村請制は有力農民が名主を支配する機構にくみこみ村単位で年貢を納入する義務を課して村にしばりつけて農民を支配した。
四日市の被差別部落地域4地区の特徴は以下である。
赤堀地区・日永天白地域の都市部の2地域は旧東海道沿いの平野部の集落である。
保守農村の保々地区小牧地域と神前地区寺方集落は四日市市北西地域の山寒気候の農村集落である。
昭和9年度の人口調査
①小牧(保々地区)⇒55戸
②寺方(神前地区)⇒65戸
③赤堀(常盤地区)⇒41戸
④日永天白地区が11戸で最も小規模な集落である。
小牧地区及び寺方地域の特徴は①山寄りの地域である②農村地域である③地形地理は藁葺き農村型の家屋である。
赤堀地区及び日永地区の特徴は①現在は四日市の市街地の一部となっている②農家はわずか1軒から2軒である。草履作りと靴職人などを仕事としていた③藁葺きの家と町屋タイプの家が多い。
小牧村は三重郡保々村に所属。昭和32年に四日市市に合併。四日市の市域の北西部。朝明川の河岸部の段上の丘の上にある地域である。4ヵ村で最北部の位置にある集落である。昭和9年の統計では戸数が55戸で人口が302人である。稲作と養蚕を主な生業とする農村であった。農業は自作農が2軒から3軒であった。9割以上が小作農であった。稲作面積は15町。平均耕作面積は4反程度である。養蚕が盛んで草履作りと伊勢オモテの製造を小牧村の村民の現金収入となっていた重要な仕事であった。女性の副業的な仕事にもなっていた。大部分の男性は生計が不十分で村外へ日雇い労働に行っていた。戦後呉服商と下駄の行商に行っていた。女性は小学校卒業後に紡績工場で働いていた。檀家寺はいなべ市東員町の真宗高田派の大雲寺であったが明治時代から大正期に保々村内の浄土真宗本願寺の円覚寺に移管した。享保3年に再建された天台宗真道寺が応仁元年に蓮如に帰依して初代住職の円覚が改宗して浄土真宗の寺となった。氏神の神明社へ明治41年に殖栗神社に合祀された。祭神は殖栗連と天照大神の延喜式内社で明治時代の1村1社政策から村内各所の神社が統合された。
寺方村は旧三重郡神前村所属で昭和29年に四日市市に合併。昭和9年度の統計。戸数65戸。人口282人で4ヵ村で最も戸数が多い村で小牧村と同じ農村地帯の部落である。
耕作面積は11町で平均耕作面積は4戸から5戸である。
村内に大地主あり。半数が小作人で土地を借りて農業をしていた。牛殺害畜産場があり畜産が盛んである。男性は日雇い労働と出稼ぎ労働をしていて、女性は草履製造と内職の仕事をしていた。
明治初期に村内に共同畜産牧場が誕生して家畜殺戮業者・肉販売・化製業者が多い。明治42年に三重郡神前村営畜産牧場へと発展解消した。仕事を四日市港の土木労働者・瓦屋・万古焼職人であった・檀家寺は赤堀地区と同じ常盤村の誓元寺である。氏神は4ヵ村で唯一独自の氏神の高角神田天白神社である。江戸時代から嘉村独自の氏神であった。高角神田天白神社の祭神は天照大神と大山祇尊である。白山社の名称が明治22年に現在の社名となった。氏子は寺方村民78世帯で構成される。近隣の区画整理事業で景観が一変した。
日永村は旧三重郡所属で四日市市域の南東部の旧東海道に近接する都市型部落の集落を形成している。
昭和9年の統計では戸数12戸で人口が89人である。日永村の近くに天白川が流れていたので水害に悩まされていた。大正12年+昭和46年+昭和47年+昭和49年に天白川が決壊した。
赤堀村とは鹿化川を挟んで至近距離にある。
日永村と赤堀地域の共通点
①低湿地に家屋が密集していた事
②ほとんどが農業以外の生業に依存していた事
③昭和16年の同年に四日市市に合併した事
④赤堀村とは麻裏草履の製造を通して常に交通と交流があった事。
戦中に日永村が15戸から16戸だった頃に自己所有の家は5戸で他の10戸は村外の地主の借地を坪50銭程度の借地料で借りていた。農業は1軒のみで耕地面積は5反から6反程度であった。
戦前は全員が勤めに出ていた。
具体的な仕事内容
①下駄+靴+コウモリ傘の修理
②港湾労働者として出稼ぎで生計を立てていた。
女性は家でオモテ作りをして⇒出来上がったオモテを赤堀村の草履製造業者の所へ持って行き賃仕事としていた。赤堀村とは深い交流があり冠婚葬祭では村中が総出となった。
昭和30年代まで全員が朝まで通夜をしていた。人口は自然増加していた。増山英一をリーダーに部落解放運動があった。宗教の仏教は真宗高田派で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の保護を受けて真宗高田派から改宗した。神社は大宮神明社で四日市南高校付近の岡山付近にあり船付明神と名乗っていた。永禄5年=1562年に現在地に移転して江戸時代に神戸藩主本多家の崇敬を受けていた。摂社は桂大神社で古来から病気平穏の神とされて信仰されていた。氏子は大瀬古町+天白町+中元町の560戸である。