1999年世界で絶対本気で生きる女肉を食べる令和奈良仏教労働者

1999年世界で生き残るため人生絶対本気で生きる公明仏

戦後論

0-1タイトル・キーワード・私の主張と考え

 

卒業論文の時代範囲は以下である。日本史の近代史(大正~平成を扱う。主に昭和史・四日市市の地域史)である。卒業論文のタイトルは以下である。

『戦後日本は日本社会党が作った』~戦後史を研究するための3つのテーマ(①四日市ぜんそくには意外と知らない公害の諸問題がある。なぜ四日市のみ公害が政治問題化したのか)(②伊藤忠治の人生を取り上げて戦後の中卒金の卵労働者社会から大学全入の学歴社会への移行したのはなぜか)(③どのような過程で戦前の大正世代から平成期の日本の家族像に変化したのか)

 

戦後史研究の論文のリンク関係は以下である。

四日市ぜんそく公害(三重県四日市で公害運動をした革新政党日本社会党である)→日本社会党(労組出身の所属議員が伊藤忠治である)→伊藤忠治(青年時代の出身が金の卵労働者)→金の卵(中卒が当たり前の世代が昭和一桁)→昭和一桁世代(1つ前の世代が大正世代)→大正世代の論文関係である。

 

論文の第1テーマの四日市公害については以下の構成とする→①四日市公害の発生地域など四日市の地理の解説②四日市ぜんそくの原因③医学的な研究論文④他の四大公害病との比較⑤四日市公害の関連人物と四日市市の政治史研究⑥四日市公害の公害対策⑦子供の受けた被害と自殺の増加などのエピソード⑧四日市公害裁判の説明⑨四日市コンビナート企業などで構成する。

論文の第2テーマの金の卵(中卒労働者)については自分が三重短期大学の先輩の伊藤忠治議員に興味あると紹介したら鍋本先生が伊藤忠治の日本社会党の議員活動のみしか認識していなかったが金の卵労働者出身の社会主義者でこの論文では昭和一桁世代の金の卵の若者として取り上げる→①金の卵と呼ばれた印刷工で定時制出身の伊藤忠衆議院議員の学生時代と政治家人生②伊藤忠治と同じ日本社会党社会主義を説明するために田口一男衆議院議員中井徳次郎議員と三重県日本社会党史③中卒が当たり前だった社会の戦後の金の卵労働者④高度成長と高校全入化による学歴社会と学歴インフレなどの教育問題の構成とした。

論文の第3テーマの大正世代については①大正時代と大正世代②戦争による戦死の急増と大正世代③大正世代と家族人口問題④戦後の大正世代と昭和世代との比較の構成とした。

 

キーワードは、第1論文の四日市ぜんそく公害のキーワードは『四日市コンビナート』『紡績産業都市四日市』『重工業化の新産業』『保革対立』『平田佐矩』『九鬼喜久男』『前川辰男』『福田香史』『沢井余志郎』『九鬼喘息やってみろ自殺』『子供の公害病死』『高煙突化対策』『雨池町・平和町の集団移転』『四日市公害裁判』である。

第2論文の金の卵労働者のキーワードは、『伊藤忠治』『津実業高等学校定時制』『昭和一桁世代』『中卒が多い』『高校全入』『田口一男・中井徳次郎日本社会党右派・左派対立』『足立区の町工場』『片山内閣の社会主義政策』『中絶合法化』

第3論文の大正世代のキーワードは、『男性人口が少ない世代』『最後の軍人世代』『最後の家制度世代』『子供数が明治末期世代5人・大正初期世代4人・大正末期世代3人・昭和一桁世代2人』

私の主張・私の考え3点

 

主張①四日市ぜんそくについての主張は、以下である。四日市公害は保守政党革新政党の政治対立の問題であった。三重県の政治対立構造は以下であった。自由民主党四日市コンビナート企業側についていた。一方野党の日本社会党など革新政党四日市ぜんそく公害患者側についていた。平田佐矩が四日市市長時代だった昭和30年代は政治が責任をとっていた。しかし平田の後任の九鬼喜久男四日市市長は公害対策を真面目にしなかった。公害を放置していた。四日市公害に対する政治家としての無責任さが四日市公害裁判の引き金となる。四日市コンビナートが誘致された理由は、四日市東洋紡績・東亜紡織・平田紡績の繊維産業を中心とする繊維都市であった事である。四日市市軽工業都市からの重工業の新しい産業を誘致する必要性があったからである。

主張②金の卵労働者についての主張は、以下である。昭和一桁世代~団塊の世代まで半数の若者が中卒で就職する社会だった。金の卵の中卒労働者が当たり前の社会で日本社会党議員となった伊藤忠治が金の卵のだった代表的人物である。団塊の世代までは、中卒となる理由は貧困で兄弟数が多数、いわゆる子沢山であり、金の卵労働者は勤勉で人間的にも優秀だった。三重県日本社会党と日本の日本社会党社会党右派・社会党左派の対立があった。日本社会党が行った政策は、戦後日本を築いたことになる。中絶を合法化する優生保護法を成立させた。この政策は1950年代以降(昭和30年代以降)から平成期にかけての深刻な少子化を招いた。日本教職員組合など教育界を握った左翼の日本社会党は高校全入化を推進して高校を義務教育化した。中卒金の卵労働者の低学歴社会を終了させた。以下の事から戦後日本は社会党が築いたのである。

主張③大正世代についての主張は、以下である。大正世代は徴兵された最後の正規軍人世代であった。シナ事変~大東亜戦争にかけて急増した戦死によって大正世代の男性人口が少なかった。大正末期世代の性比は75%程度に低下した。平均的な子供数、世代別出生数は以下である。明治末期生まれ世代のは平均子供数は5人であった。大正初期生まれ世代は平均子供数は4人であった。大正末期生まれ世代は平均子供数3人であり、子供を大学に進学させたり、娘のみ家庭が急増して、大正末期世代はサラリーマン化した。日本社会党の女性議員や産婦人科医者出身議員による議員立法だった優生保護法は中絶を合法化しするものだった。中絶合法化の影響で昭和一桁世代には平均子供数は2人まで少子化した。